人間五十年

「下天のうちをくらぶれば、夢幻のごとくなり。」とは敦盛の一節で、織田信長が愛好したので知らない人の方が少ないかと。
 
なんかかっちょいいフレーズだな、と思っていたけれど、正確なところは知らなかった。
 
ちょっと調べてみると、「下天(化天とも)」とは神々の世界「天界」の中でも1番下にあるところで、1日が人間界での50年相当となっているそうだ。(「地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天」の六道があり、その中を転生するという、仏教上の六道輪廻の世界)
 
つまるところ人間の一生は天界のそれに比べればほんの一瞬、という意味になる。もともと意味は感じ取れる文章なのだが、なるほどそういう設定だったのね、という感じ。人の生のはかなさ、ワビサビの世界だ。
 
一見諦めの境地なのか?!とも思えるが、あれほど既存の価値観を破壊してでもトップに上り詰めた信長がそんな諦観に支配されていたのかとは考えにくい。どちらかというと、歴史が語る信長像は外資系企業の経営者的な印象の方が強いくらいだ(有用・無用の判断や、それに要するスピードを考えると)。
 
基本的に目的にむかってまっしぐらなので、諦観とはほとんど無縁なのが欧米流だ(アメリカに顕著で、欧州はまたちょっと違う、と私個人の経験からは感じた)。前提には人間はなにがあっても前進し続けるという確信がある。
 
この前提だと、どうしようもないことに遭遇した際にちょっと困る。「どんな困難も克服できる」という超前向きなので、諦めるということができないからだ。なのでキリスト教やカウンセラーなのか?とか単純に想像してしまった。
 
もちろん外資系企業とはいえ失敗とは無縁でいられないわけで、そういう場合はどうなるかというと、「建設的撤退」が行われるわけだ。「今回は失敗した。しかしこのことで失敗と言う非常に貴重な教訓が得られた。次に生かそう。さぁ次だ。」というわけだ。ある意味非常に日本的に聞こえなくもないところが面白い。
 
さて、「人間五十年、化天の内をくらぶれば、夢幻のごとくなり。一度生を受け滅せぬ者の有るべきか。」だが、単に諦観だけを表したものでないとすればその心はなんなのか?
 
考えてみたが、たぶん行間にはこんな気持ちが入っているのかもしれない。
「人間の一生なんて神々のそれに比べたら夢か幻みたいなものだ。が、しかしだからこそ、生きている間は全力で生きるべきじゃないのか?チンタラ生きていたら、寝て起きて1日で終わってしまうようなものだ。」
 
想像力を膨らませすぎだと思うが、まぁたまには・・・。w
もしこんな信長だったとしたら、経営者としても辣腕を奮ったであろうことは想像に難くない。(って、「プレジデント」かよっっ)
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